「モノを書く」「モノを言う」
『根をもつこと、翼をもつこと』田口ランディ 晶文社
『人生の目的』五木寛之 幻冬舎
『恋愛の格差』村上龍 青春出版
昨年末に、阿佐ヶ谷図書館から借りた3冊。
家の大掃除を怠けて、長風呂して読みました。たまたまだけれど3冊ともに、2000年前後に書かれた本でした。つまり、今から7、8年前ぐらい前ってことです。この歳になると、わずか7、8年前って、ごくごく最近な感じがするんですが、読み進むうちに、3冊ともにちょっとした違和感を感じたんですね。バブルが崩壊して、日本社会がこの先どうなっていくのかわからない。そういった時代背景にある「暗さ」が醸し出す違和感かな、とはじめは思ったんですが、そうじゃないんですね。
何だろう、何が今と違うんだろうって考えた時、ふと思ったことは、自分が読んでいる最近の本に比べ、テーマが大きいんです。「戦争」や「人生」や「恋愛」や、3冊ともにそれぞれ言及している内容は違うのですが、モノのとらえかたが大きい、というか逆に、今基点で読むと、テーマが大きすぎて、何か雑駁な感じがしたんです。大きなテーマを世の中に問いかける、という姿勢とはすれ違うカタチで、今の僕らの感覚が変化しているから、何かボンヤリとした内容に感じてしまう。
たぶん、たった7、8年前は、「モノを書く」ということが、「社会に対してモノを言う」ことだったんですね。著者たちにも、「社会全体に対してモノを言う」姿勢が残っていた。僕たちは、こういった著名な方々が、大きな視座でモノを言うことに対して、「本を買う」意味を見出していたんです。出版マーケットも今よりずっと大きくって、「書く側」も「買う側」も、感覚が今とは全然違っていたんでしょう。
『ウェブ進化論』の梅田さんも言っていたように、ネットが出現した結果、「モノを書く」ことが、ごく一部の特別な人たちの特権でなくなって、多くの人たちに開放された。そしてそれは、ネットの中だけの話ではなくて、出版への影響も当然大きかった。たくさんの人たちが、自分の専門分野に関する、「狭いけれど深い話」をするようになった。その人たちが、「モノ言う」相手は、社会全体じゃないんですね。「狭いけれど深い話」をわかってくれる人だけでいいんです。
そして、いい悪いは別にして、僕らはそういった環境に慣れてしまった。だから、いくら著名な人の本でも、漠とした話にはノレないし、無名の人でも、自分が興味を持てる深い話ならば読みたくなる。ある意味それは、「社会全体のオタク化」が、「本を読む意味」に変化をもたらしたのかもしれない。
本とは全然関係ないけれど、最近はお酒を飲みながら、「政治」や「人生」や「恋愛」についての、獏とした話をすることって無いですよね。いまどき、獏とした話をするのは、酔っ払ったオヤジだけですね。いや、オヤジだってしないか。「人生っていうのはさぁ」なんて台詞、3流のドラマにも出てきません。でも、たまにはみんなで獏とした話も面白いかもね。
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コメント
ごめんください、突然お邪魔します。前回のスケジュール帳に関するお話はとても新鮮で参考になりました。最近、某著名人が出版した整理術云々の話も参考になったんですが、その考え方は確かに合理的で正しいのです。でも正しすぎて、隙が見つからない。なんとなく体温みたいなものが感じられなくて…なのでスケジュール帳みたいな考え方はすごく人間的で心地よい感じがしました。今回の話にもあった、人生ってさぁ~…みたいな泥くささも何年後かには一周回って、とても大事な事だと感じれる時が来るのかもしませんね。失礼しました。
投稿: one | 2008年1月14日 (月) 午後 11時27分