映画・テレビ・演劇

2008年2月 4日 (月)

『かもめ食堂』『めがね』

DVD『かもめ食堂』 荻上直子監督(2006年作品)

主演の小林聡美さんが、とても素敵な映画でした。ヘルシンキに旅して、そこに「食堂」を開く日本人女性のお話。いわゆる、「女性ひとり旅もの」ですね。いろいろな女性たちが、その「食堂」を訪れてくる。特に何かが起きるわけでもなく、淡々とした日常が続いていくだけ。事件といえるのは、夫との別れ話でお酒に溺れる女性をみんなで助けるとか、店の前の主人が、忘れ物を取りに忍び込んでくるぐらい、っていうか、あまり大きな事件が起きると、「女性ひとり旅もの」は成立しない。サスペンスものになっちゃう(笑)。

原作は群ようこさん。共演は片桐はいりさんと、もたいまさこさん。「やっぱり猫が好き」的なものに、ヘルシンキの空気と言葉が混ざりこんで、おいしそうな料理シーンも独特で、全体として新しい世界観、空気感を持った映画になっています。

小林聡美さんは、自分のセリフの言い終わりに表情を入れてくる女優さんで、そこが彼女の上手さでもあるわけですが、僕はそこがやや苦手で、女優としてもある「軽さ」を感じさせていたように思います。『かもめ食堂』では、そういった(やや過剰な)表情を無くしたせいで、すごく堂々とした女優さんに感じられました。

DVD『めがね』 荻上直子監督(2007年作品)

監督、主演が『かもめ食堂』と同じコンビによる、これまた「女性ひとり旅もの」。訪れる人が極端に少ない南の島に旅して、そこに住む人たちや、島の景色や空気に、次第にココロ癒されていくというお話。癒される、じゃないですね。この映画の場合、「たそがれる」でしたね。この島が好きな人たちは、人生を「たそがれる」ために、この島を訪れる。一日中何もせず、ただ「たそがれる」ことが旅の目的。主人公は、最初、それを理解できずに戸惑うわけですが、時がたち、やがて自分も「たそがれ」仲間に入っていく。

『かもめ食堂』でも『めがね』でも、「女性たちが、何故ここへ来たのか」は一切語られない。きっと、何かに疲れ、傷つき、悲しみ…そういったことがあっただろうことは確かなんだけど、多くを語らない。実際、ひとり旅をする女性たちは、あまり突っ込んだ話はしないらしいんですね。仲良くなれば別だろうけれど、最初は、ひとり旅の理由なんて語らない。お互いを、「さんづけ」で呼び合って、ちょっと距離のある感じで。そういったリアリティが、映画にも上手に出ています。

タイトルの「めがね」が、頑張って疲れちゃった女性たちを語る小道具になっているのですが、さすがにちょっとわかりやす過ぎるような気がしましたが…そのへんを差し引いても、いい映画だと思いました。

でもさぁ、女性はいいよね。南の島やら温泉やらヘルシンキやらがあってさ。あ、おっさんたちにも、居酒屋があった!

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2006年4月30日 (日)

海外の「テレビ番組事情」

さっき「スマステ」で、海外のテレビ番組についての特集。

最近のテレビ番組の流行は、素人や有名人による「リアリティ番組」らしい。ヒルトン姉妹がファッションモデルをオーディションしたり、シルベスタースタローンが「若いROCKY」を捜したりとか、オーディション系が人気らしい。他にも、大勢の参加者の中から、いろいろな試練(寝ない、みたいな)を乗り越えて、誰が生き残るかを、何週も追っかける番組とか。「ワイフ・スワッピング」という、実際の夫婦が入れ替わる番組や、有名人が本気で、プロのダンサーとダンスを踊れるようになる(全く同じ番組が日本にもあるが!)番組もあった。もともとは、一時期テレビが不人気になった時、番組制作費が低下したのが原因で、こういった制作費の安い「リアリティ番組」が増えた、とデーブスペクターが言っていた。こういった「リアリティ番組」は、何が起きるか分からないのが最大のウリで、いろいろな刺激に飽きてしまった視聴者が、普通のシナリオにはない展開(刺激)を期待して見るようだ。刺激的という意味では、宗教や人種差別、性に言及した、かなりヤバイ、ギリギリの「リアリティ番組」も紹介されていた。それと、いわゆる参加性。自分と同じような立場の人が出ることで、「自分も出られるかも」という一体感を感じさせたり、投票などによる物理的な参加性も兼ね備えている。(中国では、オーデション番組に3億人がケータイから投票した、というのもスゴイ!)。広告でも似たようなことが、言えるかもしれない。「予測不可能なリアリティ広告」とか、「見る側が参加する広告」とかね。プランニングの時に出たりする話だけど、実際に成功した例は、まだ多くないかもね。

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2006年3月16日 (木)

『ハゲレット』

午前3時半帰宅。明日はちょっとゆっくり出社。

鈴木聡さん脚色の『ハゲレット』を観てきた。@新宿紀伊国屋ホール。センセーショナルなタイトルによって広く注目されており、ベンガルさん他、有名な役者さんも多数出演!ということで、当然満員御礼。生きるか死ぬかを考えすぎて禿げちゃった「ハムレット」が主人公。こないだのラッパ屋公演『明日のニュース』の時に、「新聞社の内幕モノを、豆腐屋で描いたのは自分だけ!」と笑っていた鈴木聡さんのことだから、「世界広しといえど、『ハムレット』を禿げさせたのは自分だけ!」と今頃、新宿あたりで語っているかもしれない。世界的名作「ハムレット」を、『ハゲレット』にしちゃうのには、少なからず勇気がいることだろうが、鈴木さん自身が『かなりハゲレット』なのが、この作品を誕生させた大きな原因であることは間違いない。しかしここまでストレートだと、逆に自分を含めて世の中の『ハゲレット』たちが、意外と居心地がいいのは驚きであった。『ハゲ』とか『キチガイ』とか、普段テレビには出てこない単語がズバズバ出てくる展開に、多少ドキドキしながら見ていたが、変に隠すからヤラシいことになるのかもな、などと考えたのでした。いやぁ面白かったっす。

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2006年1月21日 (土)

ネットと新聞と『明日のニュース』

本日土曜日、お休み

ネットでニュースやブログなんかを読んでいると、情報が多すぎて、暗黒の海の中で溺れているような感覚になる。ネットサーフィンなんて言葉があったけど、そんな爽快な気分じゃない。「たくさん情報を得た」みたいな達成感もなく、どこまで行っても終わらない不安感に包まれる。新聞を読み終えた、あの一区切りな感じのほうがよかったなと、強く思う。自分が生きている24時間という時間が、全くもって足りないぞ。一日が50時間ぐらいあればいいのに。いや50時間あろうが、100時間あろうが、ネット上には、絶対に追いつくはずのない情報が大量に吐き出されているのだ。あー、疲れるよね、こんな状態。

昨年末から、ある新聞社の仕事をしていて、そんなことを話し合っていた。ネットはネットでいろいろな利便性やエンタテイメント性や、個人がメディア化するといった新しい可能性をもっているが、でもやっぱり新聞っていいよね、と。ある平均的な視点と、常識的な基準でもって、大量の情報から、知るべき情報を編集して知らせてくれる。これは、なにしろ楽だよねって。ネット社会って、今までとは比べられないほど、個人が情報を選別するエネルギーを求められる社会だと思うし、「編集された情報を、楽に得られる」という新聞の価値は、大きな武器だと思うなぁ。無くなんないね、新聞は。

そんなこんなで、ラッパ屋の「明日のニュース」。

昨日帰宅して、ブログを更新しようとして書き始めたのだが、一緒に行ったお店のことを書いて、寝てしまった。「明日のニュース」凄くよかったです。新聞社のお向かいにある、豆腐屋さんが舞台。新聞社の記者たちのたまり場になっている。脚本演出の鈴木さんが「豆腐屋を通じて新聞社を描いたのは、世界広しといえども自分だけだと思う(笑)」といっていたが、全くそのとうり。なにしろ設定がよかったです。お話は、新聞記者の「捏造事件」がストーリーの軸になっていた。記事の捏造は「ジャーナリズム精神」で糾弾されることが多いのだけれど、一方でこれからは、ネットの情報と比較して、その情報の「編集者としての信憑性」こそが、新聞の大きな存在理由になる。だから、捏造することによって失われる信頼は、新聞を殺してしまうことになる。そういった意味でも、捏造は絶対あってはならないのだ、なんてことも考えさせられました。

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